デュシャンの芸術は誰にでも真似できる。便器を持ってきて、誰かのサインを書けばいい。でも、誰にも真似できない。こんな無意味なもの(けなしているんじゃないよ)を「作れる」のはきっとその前に時間を表現し得た彼しかいないのかもしれない。
どうやら彼は、創作や自分自身に対する切迫感や使命感はなかったらしい。きっとそれは、芸術に意味を求めないようにしているからだと思った。「芸術とは生きること」と言っているように、それは人生に意味を求めるのと同じで、そこに意味があることを求めてはいけない気がする。自分が意味を付着させるものなのだ。
展示方法としては、
作品同士を比較する企画で観る人が作品考えるきっかけにしようと試みている。個々の作品自体のキャプションはない。途中にどっとパネルにしてあるだけで。デュシャンには必要ないのかもしれない。
比較をしてみて私が思ったことも書きたいけど、ここに公表するのも違う気もするので、書かないでおきます。長くなるから、時間がかかるからっていうのもあるのだけど…(^^;ゞ気になる人は現場でまずはご自身で感じてみて下され。
http://www.yma.city.yokohama.jp/kikaku/duchamp/index.html
←何か撮らないといけないような気がして撮ってしまった。
いつもと違うのは、いつもなら観覧車が切りの良い時間(写真は19時前)にばあっと花火みたいに電飾が光るのだけど、写真の通り、緑色のままで光らなかった。省エネ?「19時になると凄いよ」と言ったくせ何も起こらなかった為、連れの子が怒っていた。恋人に応用したい人(そんな人いるかよ)、気を付けて★